2009年9月20日日曜日

まさに実学、だが財布に諭吉は不在

とにかく昨日で二つの講習を終えた。訪問介護ヘルパーの実習は、いい年こいて恥ずかしいコメントではあるが、良い社会勉強をさせてもらった、というしかないか。
 施設(特養ホーム)では若い職員の働きぶりを見て、彼らの報酬を含めて実情をある程度聞き知っていたんで彼らを取り巻く環境を改善できずにいる行政に対し強い憤りを覚えずにはいられなかった。
 離職率の高さ、身体の故障、劣悪な勤務時間体系、給与等。

 あれだけ納めた俺の税金は何に使われているんだよ。ダム以前の問題だろうが!

 施設での仕事はわれわれ年寄りに出来ることはわずかしかない。というよりボランティアの範疇であろう。

 比して訪問介護は、年寄りでも出来ることは多々あると思う。前向きに生きている独居高齢者を手助けすることに生きがいを感じているヘルパーも多いだろう。そしてそれがたいした額でもないにしても生活の足しになればなおさら良いと思う。

 しかし家族を養うとすれば別問題であり実情は施設と同じく非常に厳しいものがある。講習を共にした他の3人も半ばあきらめ気味に現実と向き合う羽目に陥った。

 さてもうひとつの講習は福祉用具専門相談員であるが、これは40時間の講義であったが内容は介護ヘルパーと重なる部分がかなりあり、なおかつ国家資格である”住環境コーディネーター”とセットで持っていなければあまり実用的ではなく、社会的にも重要な資格だとは思えない。

 ここで共にした2人の男性も厳しい現実を思い知ることになったわけである。

 11月にある国家試験を受ける自分はこれらの資格で生活費を稼ぐなんてことははなから考えていないどちらかといえば不真面目な受講生であったが、これらの学習に対しては極めて真面目に向かい合ったと思う。なぜなら明日はわが身に訪れるであろう老化に関する予習のようなものである。

 硬直化が始まり、ベッドの上で縮んで丸くなった老人の排泄の世話などを手伝いながら、自分の子供たちの赤ん坊だったころのことを思い出していた。同じようなものであるからだ。
 認知症の中には子供に戻ってしまう人も多いと聞いている。見も心もそうして元に戻ってしまうが、母親の体の中には戻れない。だから悲しいのか。死ぬこと自体は悲しくもなければ怖くもないが、自分が戻る場所がわからないのが怖いから、死にたくなく生き続けたいのだろうか?
 死にたがっている老人はいなかった。

 スプーンを目の前にかざすと舌を出して欲しがる老人。”美味しい”と聞こえたような気がした。見つめる瞳は本当に俺を見てるんだろうか?
 入浴介助した老女は食事のときわざわざ呼び止めて俺に礼を言ったが、すぐにその記憶も消えてしまうんだろう。
 身の上話を始めながら泣き始めた老女は、2分後には他の老女と歓談してた。

まぁ、この程度の経験は実習でみんなが経験することであろう。だからこそ多くの人にも経験してもらいたいものである、特に政治家には。
 学校教育にも取り入れてもらいたいものである。家に年寄りがいなけりゃ教えることが出来ないんだから。

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