2011年3月27日日曜日

のんびり日曜日も....

さて、新年度間近である。 11日以降人並みになんとか症候群にかかったようで学業にも身が入らず(今年に入ってからずっとなんだが)今月中に出す予定だったレポートは1枚も書けていない。 来月の後半に2年次のテキストが届くまでに更にもうひとつのレポートも出す予定になっていた。テキストが届けば2年次の開始なんである。  ってな訳で明日から強行軍を決めてかからねばならない。1週間で4単位分のレポート用紙が机の上で待っているのだ。  これから先も2年次のスケジュールはぎっしり詰まってる。5日間の休みをとるには6月下旬と8月の下旬しかないというサラリーマン並みになりそうである。 沖縄行きには異存はないが去年遊びすぎたのが悔やまれる。多分今年のスクーリングは去年のようには遊んでいられないだろうなぁ。  実家の面倒は長男が全面的に見てくれることで毎週茨城県まで通っていた時間も自分のために使えるようになったし介護の仕事も自分のペースにあわせられるようになったことから環境は万全である。  実家の庭いじりも含め「晴耕雨読」を目指したが、やはり住むところでなきゃ無理だということがわかった。この先どこに住むことになるかはわからないが成り行き任せでそういう形にもってゆけたらと願うのみである。  今夜のメニューは「100%ビーフハンバーグ」、「長ネギのクリームスープ」。つけ合わせの人参グラッセの塩がききすぎた。ハンバーグは2人で2人前ずつ食べたんで、さすがに腹がきつかった。

2011年3月26日土曜日

冬日の夏目

なんという強い風。ベランダに干した布団が1枚布っ団だ。
 天気が良くてもとても昨日買ったこぶみかんの葉を干すわけにはいかない。

寒さに種類があることはこの季節に感じる。着ているものが真冬と同じなら尚更である。
 日差しとあいまって少し前の寒さとはやはり違うんである。

しかし午後のマンションの総会に使われた商店会の事務所は真冬真っ盛りだった。エアコンもきかないほど冷え切ったビルの1室にあり、2時間あまりそこにいた連中全員避難所よろしく一人としてコートを脱ぐものはいなかった。
 更にグレートクレーマーがいて進行を遅らせるのでもう少しで噴火するところだった。少し声を荒げて或る議案の採決を強行させたのが精一杯我慢した結果であり、紛争までは至らしめなかった。

 皆さんお友達よろしく、ことを荒立てないように腐心することが美徳であるようで、どうしてもこういう空気に馴染めぬ自分としては限界だったわけである。が、身体は芯から冷えちまった。
 銭湯で、と思ったがあいにく近所の銭湯は土曜日が定休なんである。

おまけに延長されたおかげで帰宅後即飯作りの時間になってしまった。

 今夜は「鶏肉と小松菜のオイスターソース炒め」、「白菜の和風ボルシチ」、「パスタサラダ」。

今日の映画鑑賞は「時代屋の女房」。群像をうまくからましてあり脚本の出来は高水準だと思う。
それにしても夏目雅子という女優はひいきではないが、この作品では実にいい雰囲気が出ている。

2011年3月25日金曜日

週末名画座

土日にサービスを入れないので金曜日が来るとなんとなくホッとする。
 午後にサービスを入れないようにしているので金曜日の午後は特にのんびりする。

今日はサービスを終えてから上野へ行きセンター地下で”こぶみかんの葉”を買った。タイ料理には欠かせないもので、西洋料理でいうところの月桂樹に相当する。

 ケーンと呼ばれるスープ料理には必須である。グリーンカレーもこのカテゴリーに入る。

今日はむら珍(店名)にあった。ここでは2軒に置いてあるが今日は他方の店は品切れであった。その店ではライムリーフって呼んでた。カイアムリーフとも呼ばれるし、いろんな呼び方があるのも香草によく似てる。
 その香草だが、近所のスーパーでは最近入荷しないようで、ついでに買っていこうかと思ってたが、あいにく良いものがなく今回は諦めた。


 センター地下で買うこぶみかんの葉は生なんで家で干さねばならない。面倒だが乾燥してあるビン入りの製品(高い!)を買うことを考えればたいしたことではない。


 今日の午後も国営放送の映画鑑賞。昨日は「裏窓」、「北国の帝王」。今日は「影なき男」、それに民放の「折り梅」。
 「裏窓」。ヒチコックのあまりに有名なこの作品をちゃんと見るのは今回が初めてである。一流の娯楽作品であることは間違いありません。
 「北国の帝王」。これが公開された頃キネマ旬報を定期的に購読していたんで筋も知っているが見るのは初めて。これもほぼ完璧な娯楽作品である。
 「影なき男」。どうにも欠点ばかり目に耳について仕方のなかった作品。主人公が登場する場面ではSポワチエがBチップス(夜の大捜査線)として復活?と思わせたのもつかの間で、中途半端なサスペンスとアクションが2時間近く続き、場違いな音楽がそれに上乗せされるんである。
 
 「折り梅」。アルツハイマー患者を中心に描かれる家族というものの見直し啓蒙映画である。と、皮肉っぽく書きなぐって済ませられないものがこの作品にはある。
 まず、ハッピーエンドに持っていったように見せかけ、最後にこれから先の困難さをさらりと描くところが新鮮である。それに啓蒙と書いたが、そうした場面のカットの長さがいやらしくない。つまりちょうど良いということだ。衝撃的な意味で「明日の記憶」が脚光を浴びたが、介護が身近な人におすすめの作品である。

 今夜のメニューは「ベトナムの高菜の玉子焼き(ベトナム勉強帳より)」、「小松菜とがんもどきの煮物」、「白菜と挽肉のスープ」、「生野菜サラダ」。

2011年3月23日水曜日

自分で行う車....自行車(自転車の中国語)

 さすがに2日連荘でTV映画鑑賞、少々疲れた。昨日は3本立て。
「ヘアスプレー」。ノンストップミュージカルである。のりだけで楽しく観られる。
「逃走迷路」。ヒチコックの作品。年代は多分戦前なんではないか?後でググってみよう。
 不思議な感じのサスペンスである。その後の作品に見られるエピソードの原型が見られるのではないか?政治的な内容もあり盛りだくさんの内容である。しかし展開や人物設定に無理が目立つので結末まで緊張が持続しない。
 この今ひとつぴりっとこない不思議な感じにトリフォーが引かれたのかもしれない。

「その男ゾルバ」。Aクィン演ずるゾルバの描き方がなんとも面白い。シリアスなシーンも吹っ飛ぶくらいである。適当。この言葉はこの人物のためにあるかのようだ。高田純次の祖先である。

3本目の映画は国営放送の深夜に放映されたものを実家から払い下げになったレコーダーで録画したものである。同時に我が家もやっとのことで地デジ化した。


 今日も映画を放送していたが自転車のタイヤ交換が切実なことになったんで、こちらに専念することにした。何せタイヤ交換は何度やってもスムースにことが運んだことがないので時間を多めに予定しなければならないので、午後を全てつぶす覚悟が必要なんである。
 後輪と前輪を止めてあるボルトのサイズが同じでないことからレンチが不足するというトラブルから始まった。
 仕方なく午前中に後輪の交換を済ませ午後はホームセンターでレンチを買ってきて前輪の交換を済ませた。後輪の反射鏡も壊れてたんでそれも交換。

 予定通り丸1日費やしたも同じことになった。

今夜のメニューは「えのきと豆腐のカレーあんかけ」、「なすの味噌汁」、「子持ししゃも」、「しいたけシュウマイ」。初挑戦のシュウマイは見事に失敗した。原因はこのレシピにある春雨の戻し方の時間をレシピより長くかけてしまったことにある。

2011年3月21日月曜日

今年の花見は?

 世間は...と書くと書きようがなくなるくらい混沌としている。ブログの出だしとしては必要のないところであるが、そこは年寄りのなせる技(更新のきかない)である。

 桜が、早いものは満開であり、すぐ下に満開のものが1本植わってる。毎朝ベランダに出ると必ず1羽の鳥が来ていて桜の花びらをついばんでいる。濃い桜色の花びらの何をついばんでるのか知らないが、6時ごろ必ず来ている。朝飯なのか、食後のデザートなのか、消化を助ける作用があるものなのか?

 その桜もここ2.3日の風で花びらが散っていた。

こんな風景に歌を詠む者もいるだろうし、自分のように長命寺の桜餅を思い出している者もいるかも。また花見の酒を待ち望むものも入るだろう。とにかく季節の入り口を象徴する花であることには違いない。

 以前より新緑の葉桜は季節も含めて好きだったが、花自体は好きでも嫌いでもなかったが何年か前にこの季節に悲しい出来事があって以来、どちらかといえば一般的な華やいだ気持ちからは遠ざかっていた期間があった。
 それが一昨年本八幡で花見をしてから変わった。素晴らしい光景だったが、その光景の中でまどろむ(酔う)のはすこぶる気持ちの良いものであった。
 花が咲く頃、仕事で通る谷中が楽しみである。朝早いんで酔っ払いの喧騒もないし空気も幾分きれいだろうし。思いっきり刹那的になりながら楽しんで良い季節である。


 今夜のメニューは「アジの干物」、「わかめの味噌汁」、「もやしとにらソース炒め」、「三つ葉のおひたし」。

2011年3月20日日曜日

外出禁止令?

 せっかくの陽気、河川敷で走りたいところだが先日自転車のタイヤを買いにいったときに自転車屋の入り口の段差でこけたときの打撲の痛みがとれず断念した。

 左ひざ、右ひじ、そして今回の右大腿部の打撲とまさに満身創痍である。

というわけで今日も午後から国営放送の映画鑑賞2本立て。

 「アウトオブサイト」。Sソダーバーグは共同脚本に相当口を出す監督だと勝手に想像している。それが今回良いほうに仕上がる結果をもたらしたんでは?タッチがのろくとても楽しめる展開である。CGだらけのアクションにうんざりされてる方におすすめである。ただしストップモーションが意味なく入るんだがただ目障りで故障じゃないかと観客が勘違いしてしまうほどである。こんな撮りかたしてたっけ?

 「17歳のカルテ」。「カッコーの巣の上で」をなぞってんじゃないの?と思わないほうがおかしいくらい似ている。仕上がりは到底及ばない。意外性もなければ新鮮味もない。Aジョリーが良かったって?ファンであってもそれはほめすぎ。もちろん彼女のファンでもなんでもない。ちなみに日本の「クワイエットルームへようこそ」はこの作品からの影響がかなり強く出ていたことを思い出した。

 今夜は冷蔵庫整理最終回。「ジャガイモ、ウインナのビネガーソテー」、「なめこと三つ葉の味噌汁」、「しらたきとわかめのサラダ」、「こんにゃくとちくわのきんぴら」。
 

2011年3月19日土曜日

30分の散歩

こんな時なんである。木曜日はちょっと距離があるが谷中まで足を伸ばす。
 その直前のサービスが早めに始め早めに終えたんで、開始予定時刻より30分早く到着してしまった。自転車を止めてから近所を散歩した。寺町である。その合間に家があるという所もあるくらいである。その家も近代的なものやら5.60年は経っていると思えるようなものもある。

 そうした古い民家を眺めるのが好きだ。特に窓ガラスの枠が木製だったりすると、何だかうれしくなってきたりする。そのがらすがスモークだったら尚更である。逆にきれいに年を重ねた家の窓がサッシに換えられていたりすると悲しくなる。

 外壁が亜鉛鉄板で覆われていたり、補修工事にその時代の流行が見られる。電話線ケーブルやエアコンの設置のための改修工事も景観を損ねないように苦心しているものもある。エアコン室外機を隠してしまうのを見たときは感心してしまった。だが、ある神社の賽銭箱の上の蛍光灯にはがっかりした。

 こうした電気製品など生活を変えたことによる景観の害し方に以前より馴染めなくなったというか違和感を覚えるようになったのも懐古趣味が強くなる歳になったいうことかもしれない。

 三崎坂を中心線に行ったり来たりで30分。ちょっと狭い道を入るといい加減奥まで行って行き止まり、なんてこともある。敷石はでこぼこで、中途半端な間をとっているので高齢者にはつらいところだ。
 車椅子も無理である。どうやって死ぬまで暮らすんだろうか?

そんなことを考えながらサービス開始時間に戻った。ここの家も戦後すぐ建てられたと思う。あいにくそういった話をする機会が今までなかったが、次回は5分ぐらい早くサービスには入って尋ねてみよう。


今日は午前中に買い物。だがゆうちょのATMがどこも休みなんで財源不足につき買ってきたものは牛乳2本きりであった。
 午後は国営放送で映画鑑賞。しかも2本立て。

 「ヒトラーの贋札」。気になっていた作品。強制収容所でナチに贋札を作らされるユダヤ人の物語。あらすじだけでも興味がわく作品である。本も良いし、役者も知らない人ばかりなので先入観なしで見られた。ただしカメラワークがきつい。動きすぎではないだろうか?

 「キンキーブーツ」。倒産寸前の靴工場をゲイ専用の靴の製作により立て直そうとする跡継ぎを中心のお話。「フルモンティ」を思い出していた。コメデイだけにしてしまわないのが英国流なのかは知らないが、この作品についてはその中途半端さが悪く出てしまったようである。もっとすっきりできる様な気がするが.....。選曲は良い。

 今夜はそういうわけで冷蔵庫内の整理日になった。「もやしにかまぼこのあんかけ」、「ワンタンスープ」、「人参のもずく和え」、「納豆とわかめの豆板醤和え」。

2011年3月16日水曜日

心に良いこと、身体にも...

我が家では震災後ほとんどラジオがかかっている。
 しかしこれは精神的に良くないそうである。
  自分にイライラがつのってるのがわかる。
   買いだめするアホ、朝から釣りに行くのに自転車で信号無視するバカ、停電に文句つけるカス...。
    一歩外へ出ればこんな面々と出会っちまう今日びである。
     きれそうになっちまう自分をやっとのことで押さえ込む。

対症療法では運動が一番だそうである。とはいえ歩くにも自転車乗るにも寒すぎる天気だった。
ってことでいつものジム。

バイクも腹筋、背筋もきつかったのにランだけは足の痛みも発生せず久しぶりに10k走りきった。約1年ぶり?である。
 もう少し身体が軽ければ更に楽だったかもしれないというのは欲張りすぎか?
 間食をやめればかなりの効果があることは自覚しているんだが....。

 しかし家にいる時間が長くなればなるほどお茶を飲む。当然のごとくお茶の友が欲しくなる。
在庫が少なくなったんで先ほど近所の100円ローソンで何点か買ってきてしまったくらいである。
その中に特筆すべきものがあった。「エースコイン」である。古銭をかたどったビスケットでありその種類の多さにも驚くが、筆頭に富本銭があることに更に驚く。これは流通貨幣かそれとも祭祀に使われていたものなのか結論が出ていないものなのである。先月のレポートで取り上げたテーマの中に出てきたもので、思い出しながら口の中にせっせと運んでいるのである。
 間食をやめるのはもう少し先に延ばそう。

今夜のメニューは「麻婆豆腐」、「三宝菜(八宝菜の味付けで三品)」、「ワンタンスープ」。このうちワンタンのみオリジナル。

2011年3月15日火曜日

欲ボケ(我欲)

 そろそろ米がなくなりそうなんでいつもの店で買おうとしたら目的の銘柄はおろか米自体全て売り切れ状態であった。しかも店内は通常の5倍。乾麺コーナーも棚が空いていた。

 本当に米びつの底が見えてる我が家としては困ったことである。

近所のスーパーでも状況は同じ。店員はあさって入荷するから心配ないと客に説明してるのが聞こえた。心配することはないとは思いつつ、パニックに陥った人を恨んだ。

 今夜の2合が最後の米だった。

 同居人が買い物ついでに近所のほかのスーパーで見つけた5kの米を買ってきてくれたんで危機は回避できた。値段は少し高いがこの際そんなことを言ってる場合ではない。

 そういえばティッシュもそろそろなくなりそうで、これもどこのスーパーも売切れである。救援物資を東北方面に送ることによって東京の在庫がなくなっちまうとでも思ってるんだろうか?


東京に大きな地震がおきて買い集めた商品の下敷きになってくたばるとしたら......。

これが石原都知事の”我欲”ってやつなんだろうな。

今夜のメニューは「ぶりの照り焼き」、「大根の味噌汁」、「白菜のクリーム煮」、「大根の皮のきんぴら」、「大根の葉とちりめんの炒め物」、「大根のおでん味」。1本100円の大根を使いきった。

 

2011年3月14日月曜日

海辺で住むためには

都知事は今回の震災について”天罰である”と述べたことについて。
まさにその通りであると付け加えたい。

 古代人は河口に村を作り次第に高地へ移動した。高地は戦略的、防御本意に考えれば当然帰結する場所なんである。しかも天災に備える考えももちろんあったはずだ。

 現代はそんなことは考える余地、そして余地、更に予知がなさ過ぎたんである。

土地はますますなくなり危険地域まで開発して住まわせなければならぬほど逼迫している。
たとえば東京で言うならば江東区。

 海辺では住まないんである。古代人が科学的根拠がなくとも危険を察知して住まわなかった場所に住んでいた人、それ自体が過ちであるということを証明してしまったんである。

 古代に習え! と、考古学は言える立場にいる。

考古学がつまらない学問になっちまったのは現生活と乖離しすぎっちまったことが原因であることを今回の教訓を生かして現代に対して警鐘を鳴らす学問になってで欲しい願う。

伸び悩みと飲み悩み

自信満々の上でのことだったろう。ある果汁メーカーが商品のデザインを刷新したところ売り上げが激減したそうである。

その商品はロングセラー商品で買ったことはないがデザインだけはよく憶えている。なるほど新製品のデザインと比べると従来品の方がインパクトが強く個性的だったのにリニューアル品はどちらかといえば個性がないものであった。そこでもとのデザインに戻すらしい。
 
 これを分析するとこういうことになる。メーカーは売り上げの伸びの止まった商品をデザインを変えることにより改善しようとしたのに違いないが、旧デザインに慣れ親しんで購入していた人たちがリニューアル品が見分けられなくなるとは考えも及ばなかった。

 前のデザインは購入意欲をそそるものであるにしろ限界まで稼いでいたことになる。マーケットの限界に自らの力で到達してしまったんである。

 これは多分色々な商品についてもいえることである。つまり既存のカテゴリー内の商品は余り始めたんである。その範囲で新製品が出れば既存の商品の売り上げが落ちる。トータルでの成長は止まってるということだ。更に成長を望むなら人口の増加を期待するしかないんじゃないだろうか?

 現在の市場を考えるならお隣の国の消費拡大ってところか?

人口が伸び悩みならマーケットもオーバーストアになるのは当たり前で、それでも拡大路線を貫こうとするアホ企業がいまだに多いことに国内産業の暗い将来を見るのである。

そこに来てこの震災である。計画停電などで国民が「なくても困らない生活」に気がついたら経済の復興なんて何年かかってもできないだろうなぁ。今回の事象により原発の安全性より電力を使わない生活に戻すことがどれだけ地球のために良いか、気づく人が増えることを祈りたい。

今夜のメニューは「海老と豆腐のサラダ」、「南瓜と豚肉の辛味炒め」、「小松菜の味噌汁」、「あおやぎ(本当にスーパーで並んでるのを見つけたときは驚いた)のぬた」、「白子ポン酢」。
 誕生日に長男からプレゼントされた日本酒でつまみたいおかずになってしまった。家のみはなるべくしないようにしてきたんだが.............。


 

 

2011年3月12日土曜日

待ち遠しい春と地震明け

寝不足の人が多いはずの土曜日である。

昨日1日ぐだついていたんで、なんとなくすっきりしない。そこでジムへ。
がらすきである。インストラクターに尋ねたら土曜日のこの状態は初めてだ、とのこと。

 トレッドミルも待ちなし。ところがやはり30分走って足が痛くなってきた。すっきりしないままストレッチだけは念入りにして帰宅。

 天気はいいのに出かけるのもちょっと気が引ける。いまだに強くはないが余震が続いてるからである。明日はマンションの総会の予定だったのがこの地震のために順延になったんで、明日もこの状態は続くんである。まっ、おとなしく本でも読んでんのが一番かも。

 村野守美という漫画家が亡くなった。ファンでもなんでもないが、40年位前の絵の特徴をおぼえていたんでちょっと懐かしく思い出した。作品の記憶はまるでない。
 この人は手塚治虫のアシスタントもつとめているし虫プロにもいたようである。絵のタッチはほんの少しではあるがやはり手塚の影響がみられる。これはどの漫画家にも言える。あの横山光輝(初期)でさえもである。
 何年か前に亡くなった永嶋慎二もその一人である。彼はアシスタントはしてなかったと思うが...。彼は「黄色い涙」が嵐の主演で映画化されたことによってもう少し見直されると思ってたんだが、映画自体がヒットしなかったせいか、それっきりになってしまった。ホームレスが社会問題になる中彼の描いた「フーテン」なんかも見直されればいいのになぁと他人事なのに残された奥さんに入るであろう印税のことなんかを心配してしまう。奥さんとはちょっと話しただけだが良い人そうに見えただけに...。

 というわけで阿佐ヶ谷で飲みたくなってしまった。ここでは永嶋慎二の遺作展がおこなわれた喫茶店でコーヒーを飲んだだけで赤提灯の暖簾はくぐってないんである。この春の散歩コースにしてみたいものである。

 今夜のメニューは「海老と豆腐の中華風炒め」、「小松菜と鶏ささみの煮物」、「かぼちゃ汁」。

2011年3月11日金曜日

月島散歩

今夜は長女夫婦、長男も来ることになってたんで食材を多めに仕入れしておいたのがこの地震で冷蔵庫の在庫となってしまった。仕切りなおしで2人前のメニューを考えることになった。すべきことが大分減ったんでブログでも....。

 

 昨日は天気も良く散歩にはもってこいだった。銀座まで2個の時計の修理をしに行って来た。
ひとつはバンドが切れた。ひとつは動かない。しばらくそのままにしておいたが、やはりないと不便なので思い立った。
 この2個の時計は同じメーカーで正規の修理は銀座のスオッチのビルの中にある。

オープンの様子を知ってたんで受付で「ジョージクルーニーはあれからも来た事があるんですか?」と尋ねたら笑って「来てません」との返事。
 このビルもきれいで雰囲気もいいが、5階の修理コーナーも素晴らしい空間を演出している。待ってる時間も楽しいところである。
が、今回の修理の見積もりは落胆するには十分すぎるほどであった。バンドは無償でなおしてくれたもののもうひとつはオーバーホールの必要性から約7万円、バンドがへたってるんでこれの交換で6万円以上かかるとのこと。合計で約13万円。買った当時20万円くらいだったがこの修理代で今後の使用を諦めた。知り合いのリサイクルショップに進呈するつもりである。シリアルナンバーつきの記念時計(ジャックマイヨールの潜水記録)だから中には欲しがる物好きもいるだろう。

 大体時計なんか1個ありゃ沢山なわけだが、これを購入したときはゆとりがありすぎるくらいだったことを思い出す。こうなるとやはり物は必要以上に持つものではないな、と思う。

 少し肩を落としながら銀座から勝鬨橋を渡って月島まで歩いた。徒歩でこの橋を渡ったのははじめてである。
 親友Tと飲むために来たのであるが3時間以上前に着くように来たのには理由がある。
ここには月島スポーツプラザという施設がありジムやプールがあり、以前(10年くらい前?)来たときに次回来るときはここで泳ごうと決めていた。が、それから何度か来たものの泳ぐチャンスがなかった。

 ここで1時間泳いだ。フリースイミングコースは広めの2コース。続けて泳ぐ人には泳ぎにくい。一方通行なのである。もっとも1コース往復になると自分のように遅い人が泳いでいるとそれはそれで泳ぎにくい欠点もある。ベストなのは両方備えてあるタイプなのだが、なかなかそのようなコース設定されてるプールにお目にかからない。

 出てから近くにある月島温泉で冷えたからだを温めた。やはりプールの後はひとっ風呂浴びたいものである。
 脱衣場で彫り物があるお兄さんが愚痴をこぼしていた。独り言である。なんでも中でもめたらしいのだが真相まではわからなかった。かかわりはもちたくないのは当然で急いで風呂場へ直行したのは言うまでもない。
 ここの水は軟水でぬめっとした感じである。「軟水なので大事に使用すること」というのは軟水にするためのコストのことを言ってるんだろうか?
 ゆっくり浸かり身体は十分に温めた。喉が渇いたが後30分でビールを飲むことを考え我慢することにした。
 そして我慢の限界というところで生ビールを飲んだときの至福は久しぶりに味わうものだった。

ただ自分がネットでの評判で選んだ店ははずれで、料理自慢をうたってたはずなのだが品書きに載ってるものは殆んどないとのこと。しかも今日のおすすめ(が記されてると本人は思い込んでいる)の白板のメニューでさえ1品ないんである。暖簾を出してから1時間足らずのはずだが、ありえないことが続いたんで興ざめしてしまい、せっかく暖めた身体も冷えちゃうんじゃないかと思った。親友にも申し訳ないことをした。親父の愛想の良いことだけは取り柄の店だ。
 仕方なく白板のメニューから4品ほど頼んでビール、ハイボールをやっつけた。

 店の選択は「酒場放浪記」を参考にしたが、1軒は超人気店で行列必至なので諦め、もう1軒は猫がいるってことで没とした。食い物やで出すのは食うための獣であって、愛玩はご法度としている。
そこで他のページで探したんである。
 場所は月島だが「もんじゃ」で一杯やる気は毛頭ない。あれは餓鬼の食いもんである。もっともかなり腹が減ってたんでお好み焼きでもよかったかな、と少し後悔している。

 それにしてもこれを書いてる間も時々揺れる。朝は二日酔いでふらふら自身が揺れてたが、夕方になってぶり返した?ようである。

2011年3月9日水曜日

もっとなゴーヤーかに...

やはり沖縄である。
 何とかという元総領事がしゃべったことに対しての反撃がすごいことになっている。

 が、そんなに憤ることなんだろうか?”ゴーヤー”に関しては間違ったことは言ってない。生産出荷量とも日本一は群馬県である。沖縄JAの怠慢だろう。

 ”ゆすり”に関しても要求の方法がある程度補償問題だけが目立ってるんで、第三者から見たら別段悪いことではないし仕方のないところだと思う。

 ”空港の危険度”に関しても事情通ならば誰でも知っていることである。驚くことでもなんでもない。

 一番取り上げられてしかるべきは”日本政府と沖縄とアメリカ政府”のやりとりの不可解さに言及した点であろう。日本政府は両方に違った回答を出している点をついたことこそ沖縄は大きく取り上げて世論に訴えるべきである。「よく言ってくれた」と言うべきだ。

 ことが感情論になりすぎてるんで、しかも(馬鹿)新聞があおってるから尚更核心を見逃してる。全ての悪の根源が(日本)政府にあるってことなんだから。


 堅い話は苦手なんで。今日はピンチヒッターで午後のサービス2軒受け持った。近くに図書館があるのでサービス開始まで1時間以上そこで過ごした。半分を考古学の入門書めいたもの、半分を吉行淳之介の対談集を読んだ。吉行のは題名が「やわらかい話」。その中で開高健との対談を選んだ。

 最初から最後までエロ話、特に同性愛やアブノーマルなどの話で終始し、ちょっと辟易した。
もう少し浅草の情緒が感じられるものかと思ったんだが、開高の話もうんざりしたし吉行のは更にである。とても他のを読む気になれなかった。”やわらかい”のとはちょっと、いや大分違うんだがなぁ。


帰り道ホームセンターで”沈丁花”をふた鉢買った。実家の庭に植えるためである。以前から長男が欲しがっていたものである。トイレの芳香消臭剤の香りでは金木犀が有名だが、”ピコレット”という商品に”沈丁花”がラインナップされたときは珍しかったものだが思うように売れなかったと見えて短命に終わったことを思い出した。

今夜のメニューは「キャベツと豚肉の炒め物」、「たまねぎの味噌汁」、「オクラと納豆の和え物」、「ウインナとコーンとブロッコリーのマヨサラダ」。

2011年3月8日火曜日

頑張りやのキャベツ

今朝は新聞の記事から「セルフネグレクト」について考えさせられること、現場の問題についても気にかかることなどあるが、とりあえず気にかかるのは生ゴミである。

 ベランダでおこなっている生ゴミの堆肥化(の初期の段階)で気になることがある。二つのポリ容器も1ヶ月でそろそろもうひとつの容器に各5分の一くらいの量を移し変えなければならない。
 ここで2次処理をするのだが、これも1ヶ月を要する工程である。気になるのは1ヶ月経つというのに青々した葉が残るものがあるということだ。あさりの殻やアボガドの種などは仕方ないにしてもキャベツの葉は意外だっただけに、どうしたもんだろう?
 これは外側の葉である。他にもたまねぎの皮は薄いプラスチック状になって何ヶ月経っても変わらずにいるがこれは別格?。他の野菜の外側の葉や皮は大体土色になって順調に進行しているのだがキャベツだけは別物であるようだ。

 これは内部を保護するために頑丈にできているのだろうが、食するにもまずいんでこうして生ゴミの仲間入りをしているわけで実に厄介な物である。

 明日も掘り返して、相変わらず頑張ってるキャベツのパワードスーツと顔を会わすことであろう。

今夜のメニューは「焼肉(いただき物のたれは味が濃いがうまいんで)」、「キャベツの味噌汁」、「タコときゅうりの酢の物」、「モヤシのナムルと市販のキムチ」。ご利用者の家の近くのスーパーで牛肉の特売があったんで自宅で焼肉ということにしたが、費用対効果はいいと思う。

2011年3月6日日曜日

ほっと...した(ホットな)日曜日

 鴎外の「山椒大夫」。物語は漫画映画か幼年雑誌かなにかで知っているが、まともに読んだのははじめてである。記憶が違ったのか、その当時読んだものが改作されていたのかわからないがハッピーエンドだとばかり思ってたのが大分違った。
 姉が死に、父親はとうになくなっており弟と盲目になった母親が生き残るのであった。淡々と話が進んで読み終わって何かが残るのかといえば何も残らないというのが正直なところだ。

 この話を含む短編集には歴史物から着想をえてかかれたものが集められているが、この話だけは訴えかけられるものを感じ取れなかった。

 今日の午前中の大学の試験前、昨日は試験勉強にも飽きてDVD鑑賞。「ハブと拳骨」、「69」。

 最初が沖縄物、後者は佐世保物。共通はベトナム戦争当時を背景にしてる点である。まるでスタイルは違うが郷愁を帯びてる点が似ているかもしれない。
 前者はかなりやくざ物の話としては飛躍しすぎてるし無理も多い。設定をもう少し一般人の物語としても良かったんではないだろうか?役者の演技も悪くないのでもったいない気がした。
 石田えりの母さんぶり、「サッドバケィション」をほうふつとさせる熱演である。その同じ作品で共演してた宮崎あおいも演技はともかく写され方(カメラワーク)が良かった。暴力場面はくどすぎた。たけしの作品などを参考にして欲しい。あっさりしてるほうが印象を深くすることもある。

 後者は青春物。クドカンの脚本というだけで見るほうは疲れるのを覚悟して見る。村上龍の原作のなかの69年代の郷愁をそのまま移し変えたとはいえないだろうが、あまりべったり見せられるより良い。興行的にも客を絞り込み過ぎないのではないか?
 同じ村上龍原作の題名は忘れたが森田芳光が映画化した作品はかなりべとついていたっけ。思い込みの強さは主人公に反映するものである。それがこ「69」では主人公の父親に投影してたのが救いだった。

 そして今日は試験日。同じ大学内で「薬剤師国家試験」の試験もおこなわれるようでいつもより人が多く資格ブームに沸く昨今であることを実感した。そういえばこの大学では必ず何らかの資格試験がおこなわれていた記憶がある。
 今日は1科目。開始後30分で書き尽きたので改めて見直したら構成順序が逆になっていることに気がついたが、改めて書き直しても内容自体は変わり映えもしない程度の稚拙な内容ゆえ、手を加えずそのまま提出してきた。向上心のないところ相変わらずである。



  本日とても気温が高い。ということで銭湯日和である。時間的にもちょうど良い。帰宅して台所に立つ時間もちょうど良い頃合となりそうである。

 今夜のメニューは「豚のしょうが焼き」、「ほうれん草のサラダ」、「わかめの味噌汁」、「白菜と油揚げの煮びたし」。

2011年3月4日金曜日

感動したのこころ

とにかく若いうちにもっと本を読んどけば良かったと後悔しても仕方ないんである。しかし年食ってから読んでまた違った感想を持つことも趣深いことである。

 漱石の”こころ”はまさにその好例となった。多分中学か高校あたりで読んだか読まされたかしてるはずであり、筋はもちろん覚えてるが今回読み直して随分印象が変わった。
 特に”私”が帰省して親の死に際に臨むあたりの描写の記憶がまるでなかったので、新鮮な気持ちで興味深く読めた。また、”先生”の手紙はこんなに緊張感あふれた描写だったことに驚いた。

 素晴らしい作品である。若いうちに読めばそれなりの、年食って読めば更に深く理解あるいは共鳴できるものを見つけられるんじゃないかと思う。人生の途中に悔恨を残して来て、身近に死を意識しだすこの年になればなおさらのこと。

 もっとも漱石は最後の3分の1の章を書きたいがためにその前の2章を書いたのではないかと思える。最初の先生と私の出会い、私が親の臨終を見届けずに記者に飛び乗るなど、およそ無理な展開を承知で書いてしまったのも最後の章に無理やりつなげるためだったのではないか?
 物語としてよりも人生論としての形に近いんではないだろうか?それゆえ課題図書に選ばれているのでは?

 これを読んでた頃にビージーズというグループの曲がよくラジオでかかってた。今日はそれを流しながら台所に立って作業した。
 今夜のメニューは”八宝菜”、”ワンタンスープ”、”大根の皮のきんぴら”。

2011年3月2日水曜日

寄せ鍋に肘痛(割れ鍋にとじぶた).....ちと苦しい

去年の暮れあたりに痛めた肘の痛みがひどくなり整形外科へ。
 診断結果は”上腕骨上外顆炎”。くだけた言い方すれば”テニス肘”というやつである。

 実家の庭木の剪定でのこぎりを使った作業が良くなかったことはわかっていたが、筋肉痛だとばかり思ってたのが災いした。注射を打たれシップを処方してもらい動かし方によっては痛みが出る肘を恨んでみても仕方がないとわかりつつしばらくは付き合いが継続することに観念することとなった。

1月まではプッシュアップもやってたがそれも良くなかった。

 老化も原因しているとのこと。


動けなけりゃ仕方がない、ということで読書の続きを。漱石の”彼岸過ぎまで”。実験的な作品と読んだ。組曲みたいなものにしたかったのか?三つくらいに分かれた話はそれぞれトーンも違うし交錯する筋立てが必ずしも流暢な語り口になりえていないところから失敗作ではと思う。物語も尻切れトンボであり、余韻を残すというような甘美な終わり方ではない。
 それにしても自意識過剰な人物を描かしたらやはり天才なんではないだろうか?ここまで緻密に言葉で意識下にあるものを多弁な登場人物に語らせることで描ききると読者の楽しみは別のところで見つけるほかないだろう。
 続けて部屋にあった”こころ”も何十年ぶりかで読み始めた。
この”道草”のせいでレポートのために借りたものの返却日が今日になっていることに気づきあわてて読み終え、図書館まで返却し読みきれなかったものを借りなおしたりしてたんで今日の試験勉強は棚上げになってしまった。

 今夜のメニューは”寄せ鍋”、”大根のサラダ”。寄せ鍋の素の賞味期限が今年の7月であることに気がつき寒かった今日の出番となった。仕上げはこれも次の冬まではもたない餅で〆た。

2011年3月1日火曜日

地デジいまだ未対応

昭和28年だったか29年の3月からTV放送が始まった。
 先日NHKの集金人が来て視聴料を払えというので契約を結んでいないことで断ったやり取りを思い出しながら考えた。この問題については受信環境が整っているにもかかわらず”見てる、見てない”のやり取りに発展すれば解決の糸口は見つかるはずもない。ところが現実にTVがなくても不自由を感じない生活をしているので、何だったら受信設備を全てNHKに差し上げてもいいくらいに思ってる。

 再生環境さえあれば良い訳で、それさえもPCを立ち上げる手間さえ厭わなけりゃなくてもいいんである。ベランダのBSアンテナの撤去と廃棄に関しても現在は無償というわけにいかないからNHKが負担してくれるならそれもいいと思ってる。

 それほど数年前からTVは生活からかけ離れた存在になっているのである。

 さて介護で訪問する独居老人の部屋では46時中TVがかかってる。老老の家でもほぼかかってる。TVで時代劇がかかってないと徘徊する危険性のある老人に関してはやむをえないが、それでもTVの生活に占める役割は大である。

 認知のない人の通販の利用度も高いと見た。買ったものを自慢げに見せる人もいる。買いすぎてしまい始末に困り自分にくれようとした人もあるくらいだ。
 認知の度合いにもよるが画面上で何がおこなわれているのか尋ねても答えられない人もいる。

3丁目の夕日でTVの出現により娯楽の中心が確立した世代はどんどん高齢者社会の主人公になりつつある。思うように動けなくなった世代の娯楽はやはりTVなのだろう。このお上に弱い世代からいいように視聴料を巻き上げてNHKはくだらない番組を制作し続けるのである。

 今夜のメニューは”五目寿司”、”お吸い物”、”めかぶの酢の物”、”西京漬けメロ”。ひな祭りっぽいチラシが入るんでつい食べたくなってしまった。